夏淑琴の東中野氏に対する名誉毀損訴えに疑問を呈する。弥勒菩薩ラエルは全ての戦争をやめることを主張

   

第1章 夏淑琴(か・しゆくきん)名誉毀損事件に関しての考察

 第1節 はじめに

最近、南京大虐殺の真偽についていろいろと調べているが『正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現』から引用してみたい。

要は、夏淑琴という支那人の老婦人が、自称:南京大虐殺で生き残った人間であるとして、『「南京大虐殺」の徹底検証』を書かれた東中野修造教授を訴えたというもの。

司法で断罪されたことで、恰も南京大虐殺肯定論者は南京大虐殺が既成の事実である事が改めて立証されたと主張するだろうが、そもそも、この裁判では南京大虐 殺があったかどうかを検証し夏氏の家族が本当に日本軍兵士により殺害されたかを調査し事実を究明しようとした裁判ではなかった。一方的に、夏氏の証言が正 しいと言う前提での裁判であったのだ。これでは、真実がわかるもなにもないではないか。法のもとで平等な裁判ではなく、中国側の宣伝活動を助けるような不 公平な裁判であったのではないか?

被告の東中野氏が、「1998年東中野修道氏 (亜細亜大教授、日本 「南京」 学会会長) は、『「南京虐殺」 の徹底検証』 (展転社) の中で、 「新路口事件」 の生き残りの8歳の少女は、原告夏淑琴ではないと指摘しました。つまり、夏さんを 「ニセ被害者」 と判断した」ことに対して、夏氏が名誉毀損と訴えるのであれば、裁判所は本当ならば、この夏氏が証言した「家族殺害事件」がそもそも本当に日本軍兵士により行われた事なのかどうかを捜査し審議するのが先決ではなかろうか?そして、その上で、夏氏の言ったことが嘘だとわかれば、東中野氏は無罪になるのだし、夏氏の言ったことが本当ならば、東中野氏が間違っていたとなるだろう。しかし、それを全くせずに、夏氏の証言が真実であるというのが大前提になり裁判が進んだというのは、中国政府やそれに関係する権力が裏で裁判を操作して南京大虐殺があったという中国の宣伝活動を守る意味があったのではないか?

この涌井裁判官は「南京大虐殺の一部が映っていると自称する映像」の真贋について精査な審議を経た上での裁判では全くなかった。これが法治国家の裁判官のすることだろうか?その法が政治的理由で裏から圧力がかけられたりする可能性が否めない。

 第2節 ウィキペディアからの引用

ここで、ジョン・マギーについてウィキペディアの説明を引用したい。

■引用開始

  第1項 略歴

ジョン・ギレスピー・マギー(John Gillespie Magee、1884年 – 1956年)はアメリカ合衆国の牧師。日本軍による南京事件(南京虐殺)についての証言を東京裁判で行った。また事件の記録映像(マギーフィルム)は中国政府がユネスコ記憶遺産へ申請し、2015年登録された[1]。

アメリカのペンシルベニア州ピッツバーグ出身。イェール大学で学んだ後、マサチューセッツ州の神学校に移っている。1912年から1940年まで中華民国で、米国聖公会伝道団の宣教師として活動し、南京下関地区で教会を主催してキリスト教布教と医療活動を行った

日本軍による南京占領期間中は、南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員を務め、外国人の大邸宅を借用して難民を収容した。日本軍による南京事件について記録・証言をする一方で、日本人将兵の良心的な行動も評価して記録している[4]。

  第2項 極東国際軍事裁判での証言

極東国際軍事裁判(東京裁判、1946年 – 1948年)では南京事件の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に膨大な証言を行った[5]。マギーは、夏淑琴事件の場合、現場で死体を確認し、関係者から事情聴取を行った上で証言を行っているとしている[6]。

これに対してブルックス弁護人「それでは只今のお話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身いくらくらいご覧になりましたか」との反対尋問を行い、

マギーは「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」と回答し、日本兵に後ろから誰何されて驚いて逃げ出した中国人が、竹垣があって行詰りになったために逃げられなくなったところを、日本兵が追い詰めて殺した件のみが自身が目撃したものと証言した[7]。

また、ブルックス弁護人「強姦の現行犯をご覧になったことがありますか。もしあるとすれば、それはいくつくらいでありますか」との反対尋問も行い、

マギーは「私が見ましたのは、一人の男が実際に強姦行為をしていたのであります。もう一つの二人の男というのは、女の子と寝台に横たわっていたのでありますが、その父親のいうには、私がその所に行きますよりすでに前に強姦していたということであります」と答えている[8]。

  第3項 マギー証言の評価

上記の目撃証言について、渡部昇一・田中正明等はマギーが直接目撃したのが、逃走した不審者を合法的に射殺した事案のみで、違法な残虐行為は一件も目撃していない事、及び未検証の伝聞をもとに証言をしている事などを挙げて、マギー証言の信憑性に疑問をなげかけている[9][10]。

一 方、これに対して、洞富雄・藤原彰・渡辺春己等は「“唯僅か一人の事件だけは自分で目撃致しました”と、正直に陳述しているだけのことである」(洞) [11]、「安全区で、もっぱら怪我人や強姦の被害者の救護活動をしていたマギーが殺害現場に立ち会わなかったのは当然で、マギー証言の意義は夥しい数の 被害者と接していたことにこそあるのだ。(中略)それらを無視して、殺害現場を見たのは一人だけだという部分のみが、何回も持ち出されるのである」(藤 原)[12]、「否定派はマギー証言の断片だけを切り取り、殺害、強姦の瞬間を目撃しなければ、死体があっても、被害女性がいても、「伝聞」であり、事実 として認定できないという暴論を平然と主張するのである」(渡辺)[13]と反論している。

  第4項 マギーフィルム

マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、南京事件の犠牲者・被害者を撮影したと解説する8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある。その多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、字幕の説明[14]によれば、日本軍の暴行を受けた幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っている。ただし、虐殺場面とされる映像については字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないため、写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが分からず、記録映像として疑問を呈する声もある[15][16]。

このフィルムは、のちにジョージ・アシュモア・フィッチらが1938年1月に上海へ持ち出して4セットのコピーを作製し、それらのうち1セットは南京ドイツ大使館にいたドイツの外交官のゲオルク・ローゼン博士によってドイツ外務省に送られた。同年4月に渡米したフィッチはロサンゼルスを皮切りに全米各地で映写会を開いて日本軍の蛮行を訴えることに使用し、渡米の主目的であるワシントンでは国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会、戦時情報局などの要人、新聞記者などの報道関係者にもフィルムを見せている[17]。このフィルムは、1938年5月16日の「LIFE」誌においても紹介された[18]。

しかし、極東国際軍事裁判に証拠として提出されることはなかった[15][16]。

オリジナルフィルムは長年行方不明になっていたが、香港中文大学によれば、1991年、マギーの次男デヴィット・マギーの自宅から再発見された[19]。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・マギー

■引用終了


 第3節 リンク集

(参考サイト:http://ameblo.jp/moody-night/entry-11177770449.html


  第1項 『正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現』のサイトの引用

「第1項」の参照元:http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/38707447.html


■■記事の引用開始
夏淑琴が東中野修道教授に勝訴

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URL:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090206-00000006-rcdc-cn

<南京大虐殺>生存者の名誉毀損訴訟、日本人研究者が敗訴確定—東京
2月6日10時32分配信 Record China

2009 年2月5日、南京大虐殺の生存者・夏淑琴(シア・シュウチン)さんが名誉毀損で東中野修道亜細亜大学教授及びその著書を出版した展転社を訴えてい た訴訟で、日本最高裁は被告の上告を棄却した。これにより東中野教授と展転社に400万円の支払いを命じた一審、二審判決が確定した。6日、新華社が伝え た。

南 京大虐殺当時の情景を米国人牧師ジョン・マギー氏が撮影したというフィルムのなかに、住民11人が殺害されるシーンが収録されている。当時8歳だった夏 さんはこの事件の生存者の一人。一方、東中野教授は展転社より出版した著書『「南京大虐殺」の徹底検証』で、フィルムの少女と夏さんは別人であり、証言は ねつ造されたものと主張していた。
(以下略)
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■■ジョン・マギー証言と後年の夏氏の証言との間の矛盾■■

ジョン・マギー証言(解説書)と、後年の夏淑琴証言との間には、家族の人数などで食い違いがある

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  1. 『南京安全地帯の記録』における当該事件に関するマギー証言は家族13人中11人の殺害。
  2. 『日 支紛争』に収録されたマギーの説明文は2家族14人中12人の殺害。但し、この中の「7,8歳になる妹も銃剣で突き殺した」が「銃剣で突き刺した」の間違 いであると解釈すれば、2家族13人中11人の殺害。 また、扉を開けたのは家主の「マア」。生き残りの少女が隠れた場所は古い敷布の下。
  3. 笠原十九司著『南京難民区の百日』に収録された「8歳の少女(夏淑琴)」の証言によれば、1家族15人中13人の殺害。
  4. 本多勝一著『南京への道』によれば、生き残りの少女が隠れた場所は防空壕代わりに中庭に4個並べて置かれた机の下。
  5. 夏淑琴来日時の証言によれば扉を開けたのは夏淑琴の父親で、15人中13人殺害。

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以上が、東中野修道教授が検証して『「南京大虐殺」の徹底検証』で「摘示した事実」だ。

本多勝一著『南京への道』は論外として、『南京難民区の百日』及び夏淑琴来日時の証言と、マギー証言では、夏淑琴の家族の人数が異なっている。

殺された家族の人数を間違えるなんてあり得ないから、普通に考えれば「夏淑琴」と「マギー証言の少女」は別人物、というのが東中野教授の主張だ。

これが名誉毀損になるというなら、学問の自由も言論の自由もあったもんじゃないし、そもそも、夏氏の証言を日本の警察も調査するべきではないか?

■■マギー牧師の解説書■■

そもそも、米国人牧師ジョン・マギーが撮影したというフィルムの「解説書」を読めば、犯人は支那人であることが誰の目にも明らかだ。

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フィルム四

一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主 によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬夫人がど うして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。

夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。

何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようと したので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が ニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたよう なひどい仕打ちは免れた。

さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。

傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。

撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。

彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。

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■■【検証】■■

①賊が「なかに入れろ」と要求したら、馬氏が戸を開けた。夏氏が犯人に懇願し、馬夫人が犯人に質問した。犯人達と被害者達は会話をしていたのだから、犯人達は支那人であったことが推測出来る。
②婦人が強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれ、赤ん坊は銃剣で刺殺され、他の少女も刺殺され、膣に杖が押し込まれた…犯行手口から犯人は支那人であることが推測出来る。
③戸を開けた者を直ちに撃ち殺す連中の前に別の者が跪いて他の者を殺さないように懇願したなんて有り得ない。
④8歳の子供が犯行日時は12月13日9~10時と認識し、更に14日間も経って記憶していたなんて有り得ない。
⑤事件後、向かいが日本軍の宿泊所になり、日本兵が家の庭を通る足音が聞こえる都度布団に隠れ、兵士達が毎日来て家から物を持って行ったのに、4歳の妹も泣き喚いたりせず二人で古シーツの下に隠れていたので発見されなかったなんて有り得ない。
⑥傷を負い這っていた8歳の夏淑琴が、銃殺された母の死体が横たわる部屋で、誰にも見つからず14日間も4歳の妹と生き続けたなんて有り得ない。
⑦12月1日に南京市長、12月8日に支那軍司令長官が、全市民に安全区に移るよう命令し、警察や支那軍による強制退去が行われ、12月13日には安全区以外の南京には誰も居なかった。犯行は13日より前に支那軍か支那人盗賊が行った。
⑧仮に12月13日の犯行だとしても、南京は前夜から本格的な戦闘状態に突入しており、近所の連中が当該事件に恐れて避難したなんて有り得ない。
⑨安全区国際委員会のマギーが日本軍による犯行だと考えれば、現場の日本軍憲兵隊に通報しなければならなかったのに通報しなかった。
駄目押し決定打!
日本軍にはアリバイがあった。

当時8歳の夏淑琴は犯行日時を12月13日9~10時と証言したが、12月13日9~10時に日本軍はまだ犯行現場に行き着いていなかった。

■■【結論】■■

犯人は支那軍か支那人盗賊であり、犯行は日本軍が入城した12月13日よりも前に行なわれていた。

■■記事の引用終了

  第2項 ブログ「夏淑琴さん事件は12月13日に発生したのではなかった」からの引用

※ 引用元:http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20121209/1355030905


■引用開始

反日プロパガンダに使われている夏淑琴さん事件は再検証すべき。

20121208171129

左列は、引用元からの文章で、右列は、筆者が独自にコメントした日付に関するメモです。こうすると、日付に関する矛盾点と、その理由がわかりやすいです。

引用文 (筆者注)日付関するメモ
夏淑琴(か・しゆくきん)さん事件というのは昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で、日本軍が南京を陥落させ、城内に進入したとき、夏さん一家と家主一家13名のうち11名を殺害したとする事件です。8歳の夏さんと4歳の妹が2週間生き延び、近所の近所の老女が発見しました。これらを外国人が組織する国際委員会が聞き取りし、マギー牧師が写真を撮りました。マギー牧師はこのときのことを東京裁判で次のように述べています。 昭和12年(1937年)12月13日に事件が発生
マギー「1月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色々な事件が起ったのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申し上げようと思いますのは、新開路六番地の家で起った事件であります」 1月終わり頃に目撃
サトン検察官「それは何年のことですか」  
マギー「1938年のことであります。(中略) 私は新開路六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取った母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。其の家に十三人の人が住んで居ったのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります」 1938年1月終わりごろと、マギー牧師は証言した。
マギー牧師の証言では1月の終わりに発見されたとなっています。フォスター文書にマギーが聞いた惨劇が1月25日付で書かれています。国際委員会委員長ラーベの日記の1月29日に以下の通り書かれています。
マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の日ちびとに助け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという」
 夏さんの証言には事件が起こってから発見されるまで「1週間」(南京大虐殺と原爆)というのもあります。1週間から2週間だとすると、フォスター文書の日付から逆算すると事件は1月11日から1月18日の間に発生したと考えられます。しかし、安全区の記録にも事件は12月13日と書かれています。 フォスター文書から、事件は2018年1月11日から18日の間に発生したと推測可能。
第219件「ジョン・マギー氏のきくところでは、12月13日から14日にかけて城南に住む一家の13人のうち11人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った小さな子供が話してくれたのである」
 英記者ティンパーリの著「戦争とは何か」では「1938年1月14日から2月9日にいたる暴行事件の報告」に記載されています。いったいこれはどういうことか?マギーが撮影した写真のマギーによる解説をみるとこの謎が解けてきました。 英国記者ティンパーリの著「戦争とは何か」では、「1938/1/14から1938/2/9に至る暴行事件の報告」に記載されている。
「12月13日、約30人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。

玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、ただちに彼 らはマアを拳銃で殺した上・・・(中略) その八歳の少女は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせた四歳の妹と一緒に、 この子はここに十四日間居残った」「写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人と一人の親戚から語ってもらって、確認と訂正ができた」

12/13に兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人(イスラム教徒)の家にきた。
イスラム教徒旧暦を使います。家主がイスラム教徒だったということは夏さん一家もイスラム教徒であり、集まって暮らしていた可能性が高いです。それで8歳の夏さんは旧暦で「12月13日」と答えたわけです。ネットの変換ツールを使うと旧暦の12月13日は新暦の1月14日にあたります。マギーもこのことには気づかなかったようで、事件が起こって発見されるまで2週間と自分が言っておきながら、東京裁判では「私が行ったときは事件が起ってから約6週間後」と計算し直して答えています。 イスラム教徒は、旧暦を使う。

旧暦で12/13というのは、新暦では1/14に当たる。

マギー事情聴取した「一人の隣人」というのは哈夢鶴さん(当時12歳)らの一家のことと思われます。家主一家であり、夏さんの隣の部屋住んでいました。哈さんの証言があります。(南京大虐殺と原爆)
日本軍が攻めて来るという知らせが入ったので、一週間ほど前に父と二番目の叔父と相談して、避難した方がいいのではないかということになり、南京から10キロ半れた沙州于(てへん)に避難しました。農暦(旧暦のこと)の19日だと記憶しています」

「それからだいたい一週間ぐらい、近所に住んでいた人に出会うと、『門東(中華門の東)でたくさんの人が死んでいるよ』と聞かされました。」「家に帰ってすぐ中を見ていると十一人が既に死んでいました」

農暦で、12/19

→新暦で、1938/1/20

農暦で、11/19

→新暦で、1937/12/21

 農暦の12月19日は新暦の1月20日になります。それから約一週間程で夏さんらを発見したのであれば、マギー証言とほぼ合致します。農暦の19日が11月だとすると新暦の12月21日になり、事件発見は一週間後の12月28日となり、死体を片付け葬儀をしたと言っているのですから、マギー新暦の1月に事件現場を見ることはできません。新暦の12月21日あるいは新暦の1月20日に「日本軍が攻めてくるから避難」というのはおかしく、哈さんが沙州于から城内に戻り安全区に入ったのが新暦1月20日だった思われます。 ①農暦の12/19であれば、1938/1/20に事件が発生→1週間後、夏さんらが発見された。→マギー証言と一致

②農暦の11/19であれば、1937/12/21に、事件発生→12/28に事件発見→死体を片付け葬儀→1938/1月には、マギーは事件現場を見ることは出来ない。

 事件が昭和13年(1938年)1月14日あたりに発生したとすると、このころは自治委員会もたちあがり、日本軍は第33連隊が城内にいただけです。12月13日の状況とは全く違います。武装集団は第33連隊のほか支那の便衣隊が潜んでおり、攪乱工作を行っていました。これらのことを調べないといけないでしょう。  

参考文献

河出書房新社「日中戦争資料<8>」洞富雄(編)

展転社「『南京虐殺』への大疑問」松村俊夫(著)

岩波書店「南京難民区の百日」笠原十九司(著)

草思社「南京事件 証拠写真を検証する」東中野修道・小林進・福永慎次郎(著)

講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)

河出書房新社「日中戦争資料<9>」洞富雄(編)

展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)

東方出版「南京大虐殺と原爆」戦争犠牲者を心に刻む会(編)

夏さん事件の現場 「南京、マギーフィルム3」 より http://www.youtube.com/watch?v=iUIZbCrPBbo

■引用終了

上の第1章 第3節 第1項 A.c.【検証】②で、「犯行の手口から犯人は支那人であることが推測出来る」とかいているが、ここで支那人による日本人大虐殺である「通州事件」を次の章で参考に紹介したい。この事件での支那人の殺害の手口を注意して読むと、夏氏の説明にある殺害の手口に非常に酷似しているのがわかるのではないだろうか?

第2章 通州事件

(※此の章は、ウィキペディアより引用した。)

引用元 URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/通州事件

■■引用開始

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍の通州守備隊・通州特務機関及日本人居留民を襲撃した事件[1]。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、猟奇的な殺害、処刑が行われた[1]。通州虐殺事件とも[2]

 第1節 背景

通州は、北平(現:北京市)の東約12kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた[3]。また、義和団の乱後の北京議定書に基づき、欧米列強同様日本軍邦人居留民保護の目的で駐留していた。

  第1項 盧溝橋事件

1937年7月7日に中国軍による駐留日本軍(この部隊は元々、通州に配置されようとした際に、京津線から離れた通州への配置は北京議定書の趣旨では認められないと梅津美治郎陸軍省事務次官が強く反対したため、代わりに北平西南の豊台に配置された部隊であった[4])への銃撃に端を発した盧溝橋事件が勃発し宋哲元の第29軍と日本軍が衝突した。まもなく停戦協定が結ばれたが、7月10日に日本軍将校斥候へ迫撃砲弾が撃ち込まれた[5]。7月13日、第29軍第38帥によって日本軍トラックが爆破され4名が殺害され(大紅門事件)[5]、7月16日には両軍の間で砲撃が行われた[5]。7月18日、日本軍機が銃撃され[5]、7月19日には宛平県城より日本軍への砲撃が行われ、7月20日にも再び宛平県城より日本軍への砲撃が行われたため、日本軍も砲撃を行った[5]。7月25日に廊坊での通信線補修に派遣されていた支那駐屯軍一個中隊を第29軍第38師が攻撃し死傷者を出し(廊坊事件)、続く7月26日にも北平の広安門で日中両軍が衝突した(広安門事件)[6]。

  第2項 冀東政府保安隊

冀東防共自治政府保安隊は、日本軍の支那駐屯軍から派遣された将兵により軍事訓練が施され治安部隊であり、教導総隊及び第一、第二、第三、第四の五個総隊で編成されていた[7][8]。通州城内には、保安隊第一総隊 (総隊長:張慶余)の一個区隊と教導総隊 (総隊長:殷汝耕、副総隊長:張慶余)が、城外には、第二総隊 (総隊長:張硯田)の一個区隊が配備されていた[7]。第一総隊第二区隊は、重機関銃や野砲も装備していた[9]。荒牧純介によると、旧東北軍(中国語版)の一部から編成された部隊であり、対日感情は決して良いものではなく、強い反日感情を抱く幹部もいたという[7][10]。これより前、1936年11月20日午後7時頃に昌黎保安隊第5、第6中隊の約400名が北寧鉄道の同治~開平間で機関車を停車させ、灤県部隊査閲のため同地に向っていた山海関守備隊長古田龍三少佐、副官松尾新一大尉、灤県守備隊長永松享一大尉、片木應緊軍医、久住照雄主計と同乗の日本人10名を拉致した。[11][12]。この兵変は鎮圧されたが、古田少佐が責任をとって割腹自殺した[11][13]。

  第3項 通州守備隊

盧溝橋事件発生時、通州には支那駐屯歩兵第一大隊の一個小隊 (小隊長:藤尾心一中尉)の約45名と通州憲兵分隊7名が駐屯しており、7月18日夜、支那駐屯歩兵第二連隊 (連隊長:萱島高中佐)が天津から到着し、通州師範学校に逗留した[14]。1937年7月15日付「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」に従い、「第一期掃蕩戦」の準備のため通州と豊台に補給基点が設置され[注釈 1]、会戦間に戦闘司令所の通州又は豊台への進出の可能性が想定された[注釈 2]。

  第4項 宝通寺の傳鴻恩部隊への攻撃

詳細は「平津作戦」を参照

通州新南門外宝通寺には、第29軍の独立第39旅 (旅長:阮玄武)の隷下にある717団1営 (営長:傳鴻恩)が駐屯していた[16][17]。7月25日の廊坊事件翌日の26日深夜、日本側は傳鴻恩部隊に対し武装解除し北平に向け退去するよう求める通告を行ったが、27日午前3時に至っても傳鴻恩からの回答はなく、兵営には抗戦の規制が横溢し兵馬の騒めきもひとしおであるとの密偵の報告があったため、同日黎明4時、支那駐屯歩兵第二連隊は攻撃を開始し[18]、午前11時までに傳鴻恩部隊の掃蕩を完了した[19][20][21]。

  第5項 保安隊誤爆事件

傳鴻恩部隊掃蕩の際、日本の関東軍の爆撃機が、誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆撃し、保安隊員の数名が重傷を負い、数名は爆死した[19][17][21]。細木繁特務機関長は、冀東政府の殷汝耕長官に陳謝し、爆死者の遺族に対し最善の方法を尽し、負傷者に対して医療と慰藉を講ずる旨申し出た[19]。翌28日、細木は、保安隊教導隊幹部を冀東政府に招集し、誤爆に関して説明し慰撫に努めた[19][17][21]。北平特務機関補佐官寺平忠輔は「そのかいあってか、保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである」[19]と、北平駐在大使館附武官補佐官今井武夫は、保安隊員が「たまたま二十八日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした」[22]と回想している。

  第6項 中華国民政府によるデマ放送

1937年7月27日に中華国民政府はラジオ放送を行い[23]、その中で「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台と廊坊は中国軍が奪還した」との虚偽報道に続き[23]、「最近北京における軍事会議の結果、蔣委員長は近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」と報じた[24][23]。この南京放送は、デマを流すので有名であった[25]。これを受けて冀東保安隊が日本人を襲撃することとなった[3]。

  第7項 冀東防共自治政府保安隊と第二十九軍の関係

通州保安隊はすでに人民戦線運動の影響を受けていたため、南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を先鋭化させ、中国側に寝返った方が有利と判断したとみられる[26]。冀東防共自治政府保安隊の幹部張慶餘と張硯田は密かに第二十九軍と接触していた[23]。

このような中、第二十九軍の通州攻撃を防ぐために開かれた軍事会議上で張慶餘と張硯田は分散していた配下の保安隊を通州に集結させることを提案し、保安隊の監督を担当していた日本軍の通州特務機関長細木繁中佐[27](支那駐屯軍司令部付)も、日本人保護のためと認識してこれを了承していた[23]。保安隊が集結し準備が整うと深夜に通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断すると決起した[23]。

 第2節 事件の発生

  第1項 日本軍守備隊への攻撃

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犠牲者の虐殺体。被害者の氏名が判明しており、プライバシー保護のために目にマスク処理をしている[28]

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日本人居留民の遺体[28]

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日本人居留民の遺体[29]

1937年7月29日午前2時、3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍へ攻撃を開始、殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関を襲撃、日本軍は壊滅し、また日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺された[30]。

 

渡部昇一によれば、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている[31]。[要検証 – ノート]

 

通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていたため留守部隊であり、藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、憲兵、兵站兵器部を合わせて110名程度であった[32]。

 

張慶余、張研田の両保安隊は午前二時に攻撃を開始、長官公署を襲って殷汝耕を拉致した[33]。保安隊の装備が遥かに優れていたため、日本軍守備隊は死傷者が続出し、通州特務機関は全滅した[34]。守備隊長藤尾心一中尉と通州特務機関長細木繁中佐も戦死した。

 

当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている[35]。

 

 

  第2項 日本人居留民への暴虐行為

冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[36]。

7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた[37]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[38]。

第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた[39]。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[40]。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[41]。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[42]。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[43]。

当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[44]。

また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[45]。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[46]。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった[47]。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた[48]。

 

  第3項 通州虐殺に関する同時代証言

当時中国を取材していたフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズは1938年11月に『誰も書かなかった支那の出来事』[要検証 – ノート]Behind the News in China を刊行し、そのなかで以下のように記している。

日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。[49]

 

当時中国人男性の妻であった大分県出身の日本人女性の目撃証言もあり、それを聞き書きした調寛雅が、証言を自著『天皇さまが泣いてござった』(1997年)に収載している。それによれば、保安隊員と中国人学生たちが主犯であり、かれらは胎児を妊婦の腹から引きずり出す、その父親を数人がかりで殺して腸を引きずり出し、切り刻んで妻(妊婦)の顔に投げつけるなど、いっそう凄惨な虐殺の具体例が数多く描かれている[50]。これらは通州市民の面前でおこなわれた虐殺であったが、市民はそれに対し無反応であり、虐殺後の日本人をみても同情の念を示すのではなく、身につけていたものを剥ぎ取るばかりであったという[50]。

 

 第3節 事件の終わりと反響

  第1項 虐殺者の逃亡

通州虐殺のあった翌日(7月30日)、日本軍が通州に向かっている知らせを聞いた主犯の中国人学生たちと保安隊員は即座に逃亡を開始した。日本軍到着時にはすでに保安隊員と学生の姿はなかった。

なお、この事件の主犯であった張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[注釈 3]

  第2項 事件報道

天津の支那駐屯軍司令部は、監督していた保安隊の反乱を不名誉として、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村は、事件は北京近くで発生し、すでに北京租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた[52]。

国内では、東京日日新聞が1937年7月31日付号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」との見出しで虐殺事件を報道している。その後、事件は一斉に報じられ、むごたらしい行為の詳細が日本国民に知られると、「暴虐支那を懲らしめろ」という強い国内世論が巻き起こった[53]

  第3項 山川と巴金の応酬

社会主義者の山川均は、雑誌『改造』1937年9月号「特集:北支事変の感想」に「支那軍の鬼畜性」という文章を寄稿し、「通州事件の惨状は、往年の尼港事件以上だといわれている。」、「新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどまでの残忍性は現わさないだろうから。」、「こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍のXXXして報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである」、「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果であるといわれている」、「支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」、「支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているのだから。」と、事件の残虐性と中国の反日政策との関連について論評した[54][55]。

これを読んだ中国の作家巴金は、9月19日に「山川均先生に (給山川均先生)」を書き、「混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。」、「抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うことも、また避けがたいことです。」、「このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり、特務工作をしたりしていた人たちなのです。」、「通州事件を生みだした直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。」と反論した[56][57]。

  第4項 冀東政府による謝罪

1937年(昭和12年)12月22日、冀東政府政務長官の池宗墨と北京大使館の森島守人参事官とが会談し、冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円を交付し、事件は収束した[58]。12月24日には両政府で公文交換が行われ、「冀東政府より森島参事官宛て書翰」では、事件関係者が処罰または逃亡したと説明された[59]。

 

 第4節 被害者数

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通州事件の生存者

Tungchow_Incident

事件翌日、日本軍救援部隊により安寧を取り戻す通州(1937年7月30日)

陸軍大学が1939年に作成した「支那事変初期ニ於ケル北支作戦史要」によると、通州在留邦人385名のうち223名が虐殺された[30]。陸軍省の調査では、1937年8月5日現在で発見できたものの数は、死者184名、男93名、女57名、損傷がひどく性別不明の遺体34、生存者は134名、その内訳は「内地人」77名と「半島人」57名であった[60]。在天津日本総領事館北平警察署通州分署の調査 (1937年7月29日~8月5日)によると、殺害された居留民は合計225名 (内地人114人[61]、鮮人111人[62])にのぼった[63]。また、当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将が1940年2月に記した『支那事変回想録摘記』には「通州事件に於て犠牲者邦人104名 (内冀東政府の職員及其の関係者約80名) 鮮人108名 (大多数は阿片密貿易者及醜業婦にして在住未登録なりしもの)を算するに至りしは誠に痛恨に堪えざりし所なり」とある[64][注釈 4]。また、児島襄は「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34名は性別不明なまでに惨殺されていた」[66]とし、中村粲は「在留日本人380名中、惨殺された者260名」としている[67][31]。

 

  第1項 その他の生存者の証言

  • 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」[68]。
  • 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[69]。

 

 第5節 東京裁判における証言

  第1項 却下された証言

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、1947年4月25日に通州事件に関連する14件の証拠が却下され、1件が撤回され、1件が未提出であった。このうち通州事件に直接言及しているのは、昭和12年8月2日付の外務省情報部長声明「通州事件に関する公式声明書」 (弁護側文書番号: 1109)と同年8月4日付の外務省情報部長談「通州事件」 (弁護側文書番号: 1107) であった[70]が、双方とも「外務省スポークスマンの発表は証拠価値無し」との理由でウェッブ裁判長の即決で却下された[71]。

  第2項 萱嶋・桂・桜井証言

一方、萱嶋高中将、桂鎮雄少佐、桜井文雄少佐の3名の証人の口述書が受理され、1947年4月25日午前11時から11時58分の間に萱島と桂が出廷し宣誓供述書を読み上げ[72][73][74][75]、午後1時32分に桜井が出廷し証拠写真三点を提出し宣誓供述書を読み上げた[76][77]

   A.証言①

私は元陸軍中将で宮崎県高鍋町一七八四に住んで居ります。私は昭和十年(一九三五年)三月より昭和十二年(一九三七年)十一月迄天津歩兵隊長及支那駐屯歩兵第二連隊長として天津に駐屯して居りました。

昭和十二年(一九三七年)七月二十八日私は連隊主力を率ゐ北京南方の南苑の戦闘に参加しました。此日夜は豊台に集結し、翌二十九日は豊台西方大井村附近に移動し、同地にて後命を待つて居りました。

翌三十日朝三時河邊旅団長から通州に事変が起つたので速かに之を救援せよとの命令を受けました。三時三十分私は連隊主力を率ゐ通州に急行しました。

之より先通州は冀東政府の所在地であり、約七、八百人の日鮮人が居留して居りましたので居留民保護の為歩兵第一連隊より約一小隊を配置してありました。

通州に事変が起つたと云うことでありましたが其の当時それが何のことか全く判明せず、只日本人が虐殺されていると云うことだけは灰かに知りました。そして二十九日は通州方面に火災が起こり黒煙が天に沖して居りましたので何事か起つていると云うことは知つて居りました。

通州に到着したのが午後四時であります。到着する迄に通州に在る日本人が大量虐殺されたこと、守備隊も苦戦に陥り全滅にひんしていると云う情報を断片的に知りまして、我々は殆ど休憩もせず大急行で通州に参りました。

我部隊が通州に到着するのを見て敵は東北方に退却して姿を見せません。従つて我々は戦闘を交へることなく通州に入城しました。

城内は實に凄愴なもので到る處無惨な日本居留民の死體が横はつて居りまして殆ど全部の死體には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死體や婦人の虐殺死體は殆ど見るに耐えませんでした。我々は驚愕と悲憤の念にかられながら、急ぎ守備隊に参りました。守備隊は約三十名であり別に自動車隊六十名合計百名内外でありました。二十九日朝から約三千名の支那兵の攻撃を受け重圍に陥り苦戰しましたが、幸石造建築物を利用しておりましたので全滅は免れました。然し二十名位の死傷者がありました。

私は直ちに城門を閉ぢ城内の捜索を始め殘つて居る日本人を狩り集めました。七、八百人居りました日本人で集まつて来たのは百五十名位でありまして三百五十名位は死體として発見されました。殘り二、三百名は何處かへ逃げたか或ひは虐殺されたか不明でありました。

守備隊を攻撃し日本人の虐殺を行つたのは保安隊でありましたことが判明しました。

當時私は仔細に状況を調査し上司に報告しました。

其の記録は今日ありません。從つて私は私の目撃したことを主として記憶を辿り左に陳述します。然しそれは餘りにも殘酷でありましたので、私は一生忘れることの出来ない印象となつて頭に殘つて居ります。

一、旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄の女七、八名は皆強姦され、裸體で陰部を露出した儘射殺されて居りました。其の中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていました。

家の入口には十二、三歳位の男子が通学姿で射殺されてゐました。家の内は家具、布団、衣類等何物もなく掠奪されていました。其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の状態でありました。

二、商館や役所の室内に残された日本人男子の屍體は射殺又は刺殺されたものでありますが殆どすべてが首に縄をつけ引き回した形跡があり、血潮は壁に散布され全く言語に絶したものでありました。

三、錦水楼と云う旅館は凄惨でありました。同所は危急を感じた在通州日本人が集まった所でありましたものの如く大量虐殺を受けております、玄関、入口附近には家財、器具破壊散乱し目ぼしきものは殆ど掠奪せられ、宿泊していた男子四名は座敷で射殺されていました。錦水楼の女主人や女中は数珠繋ぎにされ手足を縛された儘強姦され、遂に斬首されたと云うことでした。

四、某日本人は夫婦と嬰児の三名で天井裏に隠れ、辛うじて難を逃れていましたが、其の下で日本人が次から次へと虐殺されてゆくのを見たと私に告白していました。

— 萱島高、国会図書館[78]、速記録[79]x

 

   証言②

私は元陸軍少佐で現在千葉県夷隅郡千町村字能実に住んでおります。私は昭和一二年七月(一九三七年)の際、救護の為通州に派遣せられた第二連隊の歩兵砲中隊長代理を致しておりました。通州に七月三十一日午前二時半に到着し現地の掃蕩に従事し通州に於ける日本人居留民の虐殺の跡を見ましたので左に之を陳述致します。尚当時撮影した寫眞は提出しておりませぬ。

一、私は七月三十一日午前八時頃、旅館錦水楼に参りました。錦水楼の門に至や、変り果てた家の姿を見て驚くと共に屍体より発する臭気に思はず嫌な気持になりました。玄関の扉も家の中の障子も家具も取り毀され門の前から家の奥まで見透すことが出来ました。

入口に於て錦水楼の女将らしき人の屍体を見ました。入口より廊下に入るすぐの所で足を入口の方に向け殆ど裸で上向きに寝て顔だけに新聞紙が掛けてありました。

本人は相当に抵抗したらしく、身体の着物は寝た上で剥がされた様に見え、上半身も下半身も暴露しあちこちに銃剣で突き刺したあとが四つ五つあつた様に記憶します、これが致命傷であつたでせう。

陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱して居ました。帳場や配膳室の如きは足の踏み込み場所もない程散乱し掠奪の跡をまざまざ見せつけられました。

廊下の右側の女中部屋に日本婦人の四つの屍体があるのを見ました。全部藻掻いて死んだ様でしたが銃殺の故か屍体は比較的綺麗であつて唯、折り重なつて新で居りましたが一名だけは局部を露出し上向きになつて死んで居ました。

室内の散乱は足の踏み場所もない程でありました。

次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり或はうつぶし或は上向いて死んでおりここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが闘った跡は明瞭で男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました。

女二人は何れも背部から銃剣をつきさされた跡が歴然と残つて居ました。

次に廊下へ入りました。階下座敷に女の屍体二つ、これは殆ど身に何もつけずに素つ裸で殺され局部始め各部分に刺突の跡を見ました。

次に二階に於て四五人の屍体を発見、これは比較的綺麗に死んでおり布団をかぶせてありました。唯脚や頸や手が露出しておるのを見ましたが布団をはがす気にはなれませんでした。

池に於て二三人の屍体が浮かんでおるのを望見しましたが側へ行つて見る余裕はありませんでした。

二、市内某カフエーに於て、

私は一年前に行つたことのあるカフエーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが部屋は散乱しておらずこれは何でもなかつたかと思ひつつ進んだ時、一つのボツクスの中に、素つ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺されておりました。

カフエーの裏に日本人の家がありそこに二人の親子が惨殺されて居りました子供は手の指を揃えて切断されて居りました。

三、路上の屍体

南城門の近くに一日本人の商店がありそこの主人らしきものが引つぱり出されて、殺された屍体が路上に放置されてありました。これは胸筋の骨が露出し内臓が散乱して居りました。

— 桂鎮雄、国会図書館[80]、速記録[81]

 

   C.証言③

私は通州事変の際支那駐屯歩兵第二連隊小隊長として昭和十二年(一九三七年)七月三十日連隊主力と共に通州救護の為同地に入城し通州虐殺の模様を親しく見ましたので其の情況を左に陳述いたします。

1.午後四時頃城内に入るや私は掃蕩隊長として部下小隊を以て通州城内南半の掃蕩を命ぜられ直に掃蕩を開始しました。 先づ守備隊の東門を出ますと殆んど数間間隔に居留民男女の惨殺死體が横はつて居るのを目撃し一同悲憤の極に達つしました敵兵は見当たりませんでしたので夜半迄専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼し乍ら各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等から彼所此所の塵、埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました。

2.某飲食店内には一家悉皆首と両手を切断惨殺されて居るのを目撃しました。

婦人と云う婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして全く見るに忍びませんでした。

3.旭軒と云う飲食店に入りますとそこに居りました七八名の女は全部裸體にされ強姦射(刺)殺されて居りまして陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等全く見るに堪へませんでした。

4.東門の近くの或る鮮人商店の附近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せてそれに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠継ぎにして引廻された形跡歴然たる屍体がありました池の水は血で赤く染まつて居たのを目撃しました。

斯くして一応の掃蕩を終了しましたのは夜の九時過ぎであつたと思ひますそれ迄に私の掃蕩担任地域内で目撃しました惨殺死體は約百名で収容しました重軽傷者は約二十名と記憶して居ります此等の死傷者中には発狂して居る者も若干あり殆ど茫然自失の状態でありました。

私は此の悲惨な地獄図絵を目撃し今でも強く脳裏に印象づけられて居ります。

此等居留民惨殺死體の一部は私が寫眞に採つて居りますので寫眞を提出致します。

— 桜井文雄、国会図書館[82]、速記録[83]

 

 第6節 後世の評論

21世紀初頭の漫画家の小林よしのりは、通州事件によって当時の日本で反中感情の世論が巻き起こり、軍部支持に傾いたと主張している[84]。また、後世の歴史学者の江口圭一も、「通州事件は日本を逆上させ、暴支膺懲を加速し増幅させた。中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる」と記した[85]。

尋常ならざる殺害の状況(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など)を、生存者であった同盟通信記者安藤利男が「通州の日本人大虐殺」と題し、『文藝春秋』昭和30年(1955年)8月号において発表している[86][87]。

■■通州事件のウィキペディアからの引用終了

第3章 通州事件の画像、ビデオの紹介

ビデオURL: https://www.youtube.com/watch?v=JZl9wUDt5U4

 

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忘れ去られる通州事件

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第4章 通州事件の真実 Sさんの体験談

ビデオ掲載 URL:https://www.youtube.com/watch?v=RjYCSvFu-uk
(▲2012/04/25 に公開)

通州事件の生き証人Sさんの体験談で、(原文)ねずきちのひとりごとで掲載されている「【拡散希望】通州事件を忘れるな(2)」を紹介させて頂きます。(掲載URL: http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-ent…)このお話は、教育社発行しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」という本からの引¬用です。
デジタル化にあたっては、「blog:徳島の保守」のみなさんが、財団法人慧燈財団、¬前理事長であられた、調寛雅(しらべかんが)さんのご子息様のご許可を頂き、引用掲載¬¬されています。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/201…

 

 第1節 著者の紹介

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史研究家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会(日心会)代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com

著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』

【著者の言葉】

日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへの ご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

 第2節【拡散希望】通州事件を忘れるな(2)

引用元:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html

昭和12(1937)年7月29日、北京の西50キロにある通州市において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争のきっかけのひとつになったともいわれる「通州事件」です。

通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生によって、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。
支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみもなく、屍体までもいたぶった。
ようやくかけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状でした。

通州事件を、私達日本人は決して忘れてはいけません。
なぜなら、この事件は、一から十まで全て事実だからです。

以下は、その通州事件の体験者であるSさんの体験談です。

~~~~~~~~~
【Sさんの体験談】

私は大分の山の奥に産まれたんです。

すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。

自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

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それは昭和九年の初め頃だったのです。

Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。

それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。

そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。

Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。

そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。

それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。

そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。

するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。

Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。

日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。

すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。

そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。
これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。

それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。

そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。

しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。

そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさんはそれを許しません。

それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。
支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。

それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。
ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。

私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。

そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。

Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。

そして「危ない」「危ない」と申すのです。

それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、
「日本人皆殺し」
「日本人は人間じゃない」
「人間でない日本人は殺してしまえ」
というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。

支那人達が大騒ぎをしているのです。

何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。
そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。

でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

この頃でした。

上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。

蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

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七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。

突然私はTさんに烈しく起こされました。
大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。

そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。
何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
私はTさんと一緒に逃げながら、
「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。

でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が、
「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。

突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
そして、
「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。

それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

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八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山の支那人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

支那でも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。

その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。

沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。

するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。

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道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。

若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかし支那人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。

悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。

学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。

外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさんにしがみつきました。
Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさんの周囲には何人もの支那人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

しかしようもまあこんなに沢山支那人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まった支那人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。

こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。

何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。

いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。
私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

私はTさんにすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出 血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の 側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。

そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。

私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あ まりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新 聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」

と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。
そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。
それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。
私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。

ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。

何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。

そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。

見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。

只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。
Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。

しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。

日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。
私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~

 

以上です。

 

通州で被害に遭われた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

このお話は、教育社発行しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」という本からの引用です。
デジタル化にあたっては、「blog:徳島の保守」のみなさんが、財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調寛雅(しらべかんが)さんのご子息様のご許可を頂き、引用掲載され、当ブログで再掲させていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

ちなみに文中に出て来るSさんの夫、支那人のTさんは、支那共産党のスパイだったと言われています。
また、被害に遭遇されたSさんは、事件後、日本陸軍によって事情聴取を受けるのですが、そのあまりの可哀想さに、取り調べにあたった軍人さんが、彼女のお婆さんの体験をもとに、佐賀の因通寺にお連れしたのです。

因通寺は、たいへんに歴史のあるお寺で、しかも陛下にも奏上されたことのある由緒正しい立派なお寺です。
昭和天皇が戦後佐賀に行幸されたときは、このお寺を尋ねられてもいます。

日本陸軍の担当官は、上層部とも連絡をとりあい、このSさんの心が少しでも救われるようにと、因通寺に、彼女をお連れしているのです。
そして彼女は傷心の日々を、このお寺で過ごされています。

そして問わず語りに語った彼女の体験記を、ご住職がまとめられたのが、この体験記なのです。

たいせつなことがあります。
それは、この事件は、単に73年前のひとつの特異な事例ではない、ということです。
支那では、いまでも法輪功やウイグル、チベットで、同じことが繰り返されています。

そしていま、民主党政権のもとで、多数の支那人学生が日本に居留し、また今年7月1日のVASA要件緩和によって、多数の人民解放軍が日本にやってきている、ということです。

在日朝鮮人が走狗となって使われ、日本人は残虐だ、日本は悪い国だ、日本人は皆殺しにしなくてはならないなどとマッチポンプの役割を果たします。

そして支那人たちが大挙して日本にやってくる。
子供の頃から徹底した反日教育を受けて育った支那人たちが暴発したとき、そこで何が起こるのか。

沖縄は、いま、中共の工作によって日本人に貶められた自分たちは被害者だ、という妄想に取りつかれようとしています。
それが暴発したとき、沖縄で何が起こるのか。

歴史は繰り返すといいます。
しかし、73年前に日本人が受けたその酷い仕打ちを、絶対に繰り返してはなりません。

ここは日本です。
日本の地は、日本人が守らなくていったい誰が守るのか。

通州事件は、私たちに大切な何かを教えてくれているのだと思います。

 

最後にひとつ。

なぜ通州に、日本軍が駐屯していたかです。

日本軍は、この地を占領していたのではありません。

この前に、世界を震撼させた恐怖の義和団事件が起こっています。

この事件で清朝政府に治安維持能力がない事が分かったため、明治34(1901)年の義和団議定書で、居留民保護のために国際平和維持軍が設立されたのです。

その議定書に基づき、米英仏伊日5カ国が、36年間もの間北京周辺に大部隊を駐屯させ、居留民の保護を行ったのです。

各国駐屯軍は大砲や戦車まで持っていました。
そして各国の駐屯軍は、支那人が自国の居留民に対して、たった一度でも暴行を働くと、これに対して徹底的な軍事的制圧を行っています。

たとえば、自国の居留民ひとりが支那人によって乱暴されるようなことがあると、暴徒たち全員に、大打撃を加えています。
欧米人たちにとって、支那人は、支那人に限らず有色人種は、人間ではないと看做されたからです。

ところが日本は、同じ東洋民族として、支那人たちに仁政を行いました。
支那人に対し、人としてやさしく接しました。

普通なら、これに感謝の心が芽生えます。
けれど支那人たちは、まったく逆に「日本人は何をしても反撃してこない」と考えたのです。
そして、通州において、それが具体的な形となって顕われました。

南京大虐殺などというホラ話と異なり、通州事件は実際にあった事件です。
当時の模様は、世界中の新聞で報道されています。

日本人は、この事件を絶対に忘れてはならない。
絶対にです。

ブロガーより:

最後に・・・

ここに書かせていただいた事を読んでみて、南京大虐殺があったかどうか考えてみると、どう考えともなかったという答えしか見つからない・・。私はやはりなかったと思います。

それよりも、西洋諸国のほうが今まで何度となく弱い国々に戦争をしかけ、侵略し続けています。今では、対テロリスト戦争というプロパガンダまで作り、中東で戦争を拡大し続けています。

私たちは、この西洋諸国主導の戦争により金儲けをするやり方に反対し、彼らが戦争するのを決して許してはいけないし、止めさせなくてはいけません。

そうしなければ、私達の社会は全て滅んでしまい、子孫に残せるものは何もなくなってしまうかもしれません。

そういう事態を避けるために、そして、世の中が平和になるために、このブログを皆さんに捧げたいと思います。

 

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